カテゴリ:   思い出の街角( 7 )

ビーズの首飾り~Forty letters from Seattle(3)

c0039428_2246579.jpgバンクーバーオリンピックの開会式
選手団入場に先立ってフィールドに登場し舞い踊ったのは、カナダ全土から集まった先住民族たち。



c0039428_22441352.jpg先住民の踊りを見て、久しぶりに取り出してみたのはシンプルなビーズの首飾り
白黒のビーズ。先端には貝殻が付いています・
今から30年以上も前にアメリカ先住民の老婦人からもらったものです。


前にも書いたことがあるのですが、今から30年以上も前、シアトルで1年半ほど過ごしたことがあります。前の記事はコチラ→→→
住んでいたのは、ワシントン大学まで歩いて10分ほど、
ルーズベルト通りに面した古びたアパートでした。
居住者はほぼ全部がワシントン大学の大学院生か海外からの研究者だったと思います。

ある時、私たちの部屋のとなりに1人の老婦人が引っ越してきました。
日に焼けたような浅黒い顔。長い白髪は三つ編みにして肩にたらしていました。
暑い夏の夕方には、ドアの外にすわり、自然の素材でバスケットを編んだりしていました。
すれ違うときに軽く挨拶をするだけで、話をすることはありませんでした。

c0039428_23122980.jpgある大雨の降る晩のこと
我が家のドアをノックする人がいました。
ドアを開けてみるとお隣の老婦人がびしょぬれになって立っていました。
「これから何日間か留守にするので、新聞を預かってもらえませんか」


老婦人は一週間ほど留守にしたでしょうか
預かっていた新聞を引き取りに我が家を訪れました。
「私の息子が亡くなったのです・・・・・」
憔悴した様子の老婦人からその時手渡されたのが、このビーズの首飾りです。

それから間もなく、地元のシアトルタイムズにこの老婦人についての記事が掲載されているのを見つけました。
老婦人の名はヘーゼルさん。ワシントン州南部の先住民族の出身でした。
先住民族は白人の開拓の歴史の中で、先祖から住み慣れた土地を明け渡し、居留地として定められた条件の悪い土地に住むことを余儀なくされていて、生活も楽ではありませんでした。
ヘーゼルさんは居留地で小学校の先生をしていたのですが、居留地の生活レベルを上げるため手工芸品を作る技術を伝承させたいと退職後ワシントン大学で学んでいたのです。

ヘーゼルさんの亡くなった息子さんにはそれまで何度か出あったことがありました。
アパートの階段を2段おきに飛ぶように登ってくる快活な若者でした。
彼はヘーゼルさんの住む居留地から初めてワシントン大学の医学部に入学し、部族の期待を一心に担っている若者だったのです。

それからしばらくの間、夜になるとヘーゼルさんの部屋からは祈りの声が聞こえてきました。

アメリカ開拓歴史の中で、先住民は犠牲を強いられてきたのですが、今回のバンクーバーオリンピックの開会式では、先住民への配慮が強く出ていました。
先住民の置かれている状況が、良い方向に動いてきたのでしょう。そう願いたいものです。

c0039428_22482620.jpgワシントン州内をドライブしていると先住民の集落の入り口にはトーテムポールが立てられているのを目にしました。
シアトルを去るとき、ダウンタウンの店で購入したトーテムポールのミニチュア
  ――シアトル滞在中に関心を持った先住民の文化や神話や生活を記憶に留めておくために。

c0039428_22502889.jpg裏面には作り手の名前が彫られています。


編集者の友人に依頼され、中学生向けの雑誌にアメリカ滞在時のことをエッセイにして連載していました。エッセイには後輩のNさんがイラストを描いてくれていました。この記事の上部にアップしたイラストは、当時の本から転載したもの。私のエッセイを読んだだけで描いてくれたイラストですが、ヘーゼルさんの様子がまさにそのままなのに驚いたものです。

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by small-small-world | 2010-02-15 22:43 |    思い出の街角 | Comments(0)

Leavenworth~Forty letters from Seattle(2)

Evergreen Stateの愛称で呼ばれるワシントン州
シアトル市内を抜けると一面の森が広がっています。

シアトルから車で北上。
途中で東に折れ、森林地帯をなだらかに2時間ほど登り、やがて渓流に沿う道を下っていくと、急に平地が開けます。
おや、どこに迷い込んだのでしょう。チロル地方のような建物が立ち並ぶ町が立ち現れます。
Leavenworthという町です。

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               写真はPicasa web に公開されているものを転載


1977年7月5日付けの手紙から
7月2日から4日までは独立記念日の三連休でした。2日はLeavenworthという町へドライブしました。

Leavenworthはカスケード山脈の東側の山腹にある人口1300人ほどの町。山に囲まれ、渓流のほとりにある町はこのあたりでは珍しくはありませんが、この町の特徴は、町中がチロルの町のように作ってあることです。

建物は全部チロルの山小屋のような感じに作られ、看板もドイツ語で書かれています。スーパーマーケットからガソリンスタンドまで山小屋風。お店に入ると売り子は民族衣装。町角では皮の半ズボン、ハイソックスの男の人がアコーディオンを奏でています。お店ではヨーロッパからの輸入品のしゃれた民芸品などを売っています。まるで南ドイツの町に迷い込んだみたいです。
でも通りをぞろぞろ歩いているのはいかにもアメリカ人的な人たち。はるばる山を越え、この谷間の町を訪れた人たちです。

この谷間に最初の開拓者が入ったのは1880年頃のこと。数軒の粗末なマルタ小屋と小さな郵便局のあるささやかな集落にすぎませんでした。

1890年ころ、ここにカスケード山脈を越える鉄道建設の基地ができることになり、大きな製材工場もできて、2階建ての家が立ち並ぶ町ができました。
ところが1920年ごろには鉄道基地は移転、製材工場も営業を停止し、その後町はみるみるうちにすたれてしまいました。

眠ったような町が生き返ったのは1960年頃。町を生き返らせるために町をチロル風に建てて観光事業を起こそうと住民達が話し合ったのです。住民達は、自分達でお金を調達し、独力で町を作り上げたのです。
そして、住民達は町を挙げてドイツの町を演出し、訪れる人たちを精一杯もてなすのです。

それにしても、人々はどうして何時間もドライブして、このチロル風の町にやってくるのでしょうか。
各国から移住してアメリカにやってきたアメリカ人たちは、自分達のルーツに、けっしてもどることのできない郷愁にも似た気持ちを抱いているようです。Leavenworthに多くの人が訪れるのは、アメリカ人である自分達が持っていないふるさとを求める気持ちなのかもしれませんね。


私たちが訪れてから32年がたちました。
「町おこし」に成功した町Leavenworthはどうなっているのでしょう。
町のHPをのぞいてみました。ますます発展しているようでした。
                                   Leavenworth

c0039428_1561349.jpg薄暗い我が家の廊下に長年ぶら下げられたまま忘れ去られているオーストリア製の木製の人形
はるばるLeavenworthまで行った思い出に購入したもの。急にいとおしく感じられ始めました。
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by small-small-world | 2009-05-31 22:04 |    思い出の街角 | Comments(0)

Port Townsend~Forty letters from Seattle(1)

シアトルからの便りを読んでいるうちに色々なことを思い出しています。

c0039428_237812.jpgシアトルは海辺の街
ダウンタウンからフェリーに乗るとPudget Soundという多島海を静かに抜け、
対岸のオリンピック半島や島に渡ることができます。

私たちも週末を利用して何度かフェリーでのショートクルーズを楽しみ、オリンピック半島やPudget Soundに浮かぶ島を訪れたものでした。


c0039428_20361649.jpg春の1日
シアトルから30分ほどのところからフェリーに乗って30分。降りてから浮橋を渡って40分。
オリンピック半島の北東の端にあるPort Townsendという町を訪れたことがありました。

                 Port Townsend


c0039428_22592160.jpgPort Townsendはこのあたりでも早くから開けたところで、1880年頃には人口2万人もある大きな港町として栄えましたが、その後すたれた静かな町です。
栄えた時期に建てられたビクトリア風の家々が立ち並び、かつての栄光をしのばせるように町の規模のわりに大きな郵便局や裁判所があります。

           (写真は2枚ともPort TownsendのHPから転載)

1977年5月3日付けの手紙から

なんと幸運なことにこの日は春秋一回ずつのVictorian Home Tour というイベントの日にあたっていました。

1880年代に建てられたビクトリア風の家の中から10軒が中を公開しているのですが、それぞれが工夫をこらして古い家をきれいにして住んでいて、家具やインテリアや刺繍の額やキッチンなど、とにかく参考になりました。

だいたいの家が建てた人の手を離れて現在の所有者の手に渡っており、中には手が行き届かず、ベッドルームの壁が落ちている家もありましたが、今の所有者が古い家を改装して、きれいに住んでいるわけです。

どこの家も家族が盛装して迎えてくれます。小学生の子どもまでロングドレスを着て、チケットをチェックする役をしていました。

10軒の中で一番立派だったのは、かつてドイツ領事館だった家。塔もある3階建、ベッドルームもいくつもあって、それぞれのベッドには手編みの素晴らしいカバーがかけてあり、刺繍の額があちこちにかけられ、壁紙がまたきれいでした。

それぞれの家の中には大切にしている銀器や絵などが飾りつけてありましたが、中には日本や中国の掛け軸や絵皿、広重の五十三次の浮世絵などもありました。

船長をしていた人の建てた家の中に山水画の掛け軸がかけてあったので立ち止まって見ていると、家の女主人が「ここに何が書いてあるのかわかるか」と絵の上部に書かれている漢詩を指差しました。
ここで慌てては日本の恥とばかり落ち着いて読んでみると、なんのことはない渓流のそばの小さな家で汝と対座して酒を酌み交わす・・・簡単な説明的な詩。」
これはpoemだといって内容を説明したら、とても感謝されてしまいました。この船長さんは19世紀に5年間ほど日本に住んだことがあるそうで、横浜あたりの骨董屋ででも買ったものなのでしょうか。

金色に輝くオリンピック半島の山々を見ながら帰宅しました。(Summer Timeなので日没は8時20分頃です)
思いがけなく素晴らしい一日でした。


アメリカ北西部の小さな町Port Townsend
人々が日々の生活を静かに心豊かに過ごしているのに心打たれたのでした。
あれから32年たちましたが、現在でも当時と変わらない静かな生活が営まれているのではないでしょうか。

後日、有島武郎の「或る女」を読んだら、ヒロイン葉子が船でアメリカへ渡るときPort Townsendを通過したことが書かれていて、なつかしく思ったものです。日本からアメリカに渡るには、Pudget Soundを通過し、Seattleに入港していたのですね。
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by small-small-world | 2009-05-28 23:19 |    思い出の街角 | Comments(0)

Forty letters from Seattle

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家の中を整理していたら、忘れていた手紙の束を発見しました。
全部で40通
今から32年前(正確には1976年11月2日から1977年12月18日まで)
米国ワシントン州シアトルから両親に書き送った手紙です。

15年くらい前、家の中を整理していた母から「とっても面白い手紙だったから保存しておいたけれど、お返しするわね。」といわれて引き取ってきたのですが、そのままになっていました。
一通ごとに番号がふられ、両親が楽しみに私の便りを待っていてくれたことがしのばれます。

1ドルが300円だった時代
国際化は進んでいたとはいえ現在のように気軽に海外旅行をする感じではなかったと思います。
日本を出るとき、長女は1歳10ヶ月、長男はやっと生後6ヶ月になるところでした。4ヶ月前から暮らし始めていた連れ合いのもとに長男が6ヶ月になるのを待って合流したのでした。

初めて経験するアメリカでの生活、子ども達の成長の様子を両親に伝えようとせっせと手紙を書いたのでしょう。数通取り出して読んでみる鮮やかな記憶がよみがえります。

「1st」と番号がふられた絵葉書は1976年11月初めに兄妹に送られたもの。ワシントン大学の構内の絵柄です。c0039428_11182143.jpg
空港への見送りありがとうございました。
今日の午前中、両親は無事LAに向かいました。
さあ、これからアメリカでの私の生活が始まります。
シアトルは自然に包まれた静かな町です。
木々はみな紅葉の盛り。あらゆる黄色、あらゆる紅に染めわけられています。そして、その中でおとぎ話に出てくるような小ぎれいな街並みの中、平和な生活が営まれています。これから見聞するうちに、どんなふうに印象が変わるでしょう。
我がアパートは大学のすぐそば、集中暖房やひねればお湯の出てくるところは日本の高級マンション並みです。来春いらしてくださるのを楽しみにしています。

幼い子二人を連れ、オムツなどたくさんの荷物持参でアメリカに向かう私を心配して両親がシアトルまで送ってくれ、2日ほど滞在した後、二人でLAとNYを旅行して帰ったのでした。
戦前の教育を受けた両親は、英語の読み書きは堪能でしたが、聞く話すはまったくだめだったはず。
初めてのアメリカ旅行の思い出を聞いたことはそういえばありませんでしたが、どんな旅行だったのでしょう。
今では聞くすべもありませんが。
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by small-small-world | 2009-05-20 11:24 |    思い出の街角 | Comments(0)

エストニアの指輪

引き出しの整理をしていたら隅っこに小さなものが転がっているのを発見。
つまみあげてみると指輪でした。

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1998年の6月のこと。
ヘルシンキで何日間かを過ごしたことがありました。
ヘルシンキで過ごすのは2度目。それほど大きい街ではありませんから、街中は歩き尽くしたので、ちょっと遠出をしてみようと思い立ちました。
ガイドブックの隅っこにエストニア行きのフェリーがあると出ていたのを思い出し、波止場近くのインフォメーション・センターでエストニアについて聞いただけのつもりだったのですが、なんとなく翌朝早くに出るフェリーのチケットを購入してしまいました。
それで、エストニアについて何の知識も情報もないまま、たった一人でどんより霧の立ちこめるバルト海を渡っることになったのでした。

深い霧で1メートル先しか見えない寂しいエストニアの港に降り立ち、
小さな建物で入国手続きをし、気付くと乗客たちはそれぞれ立ち去った後。
たった一台残っていたタクシーに乗ったもののどこへ向かってほしいと言うべきなのかわからず、
「インフォメーション・センターへ」としかいえませんでした。

色彩がまったくない霧深い街を走りぬけていくときの気持ちには何故か不安感はありませんでした。
やがて運転手は、城壁(その時は城壁だとは知らなかったのですが)の外にタクシーを着け、城壁に入ってからの道筋を教えてくれました。(ラッキーなことに運転手は英語が話せました。)
エストニア語で「ありがとう」を「アイタ」ということだけを教えてもらい、城壁の中に1人足を踏み入れたのでした。

その日1日のことをけっして忘れることはないでしょう。
何の予備知識もなく、中世のハンザ都市タリンをさまよい歩くことになったのです。
現在はわかりませんが、当時はほとんど観光化もされていなくて、中世そのままの細い路地や何百年も壁を磨いたことがないような黒ずんだ壁の聖堂。まるでおとぎ話の中に迷い込んでしまったような一日でした。
民主化して間もない頃、物資も豊かではない印象で、洒落たお店もあまりありませんでしたが、路地裏で自分の描いた小さな絵を売っているお店で小さな額を手に入れました。少しは雰囲気がわかっていただけるでしょう。
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エストニアが旧ソ連から独立したのは1991年
民主化の途次にあったというものの、まだまだ道半ば
その後、バルト3国をめぐるツアーの案内を見かけるようになりましたが、その頃は日本からの観光客はほとんどいなかったのではないでしょうか。
たった一人で、下調べもなく足を踏み入れ、今から考えると大胆なことでした。

クレジット・カードを使えばいいと、まったく安易な気持ちで出かけたので現金はほんのわずかしか持っていませんでした。
でも何か思い出になるものを買いたいとラエコヤ広場近くの小さなお店で購入したのがこの指輪
娘のと二つ購入したのですが、いくらだったのか・・・・・。

ついでに棚の上に置かれたままになっているになっている人形もこの機会にご紹介します。
寺院の脇にあった小さなお土産屋さんにぽつんと置いてあったもの
ほんのわずかな品物しか並んでいない店内で高校生くらいの若者がなれない雰囲気で店番していました。
材料は何?と聞いてみたのですが、英語がまったく通じませんでした。
たぶん麻の繊維を束ねたものだと思います。
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指輪の発見で、引き出しの片づけをしばし忘れ、思い出にふけりました。
お土産の効用って、そういうことなんですね。
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by small-small-world | 2009-04-15 12:52 |    思い出の街角 | Comments(0)

アルデンヌ地方の古城

時々思い出す風景があります。

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ベルギー南部アルデンヌ地方の森
その森の奥深く
静かに立つシャトー・ダッソンヴィル
17世紀にその地の領主によって建てられ、ルイ14世も狩猟に訪れたという古城です。

現在はホテルになっているこの城を訪れたのは、今から6年前。
2000年10月31日のこと。(上の写真は、ホテルのホームページの写真のコピーです。)

ブリュッセルから鉄道で南へ。
ナミュールに立ち寄ってから、Marloie(マルロー)という人影のない小さな駅で下車しました。
駅の公衆電話からホテルに電話して5分ほど待っていると
黒塗りの乗用車が横付けされ、黒いスーツの執事(?)がうやうやしく頭を下げました。

車は村の集落を抜け、やがて森の入り口にある門を通り過ぎ、木々の間を縫うように走る道をたどり・・・・(かつては、馬車が通った道なのでしょう)・・やや開けた場所にくると、その向こうにまるでおとぎばなしにでもでてきそうなお城が現れてくるのでした。

55万㎡あるという敷地をそぞろ歩くと
芝生の庭には白馬が放たれ
木々は紅く黄色く色づき
森は17世紀そのままに保たれています。

私の部屋は城の3階
上の写真の中央の尖塔の真下の部屋
窓からは下のような景色が見下ろせます。
今宵一夜は姫の気分です。
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その夜は満月
時差ぼけで真夜中に目を覚ましました。

するとどうでしょう。
白く光る月が森の上に昇り
芝生も森も銀色に輝いているのです。
忘れることの出来ない
夢のように美しい光景でした。

ところで
このシャトーホテルのレストランもとても素敵でした。
執事に案内され、貴族になった雰囲気に浸れます。
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by small-small-world | 2006-11-03 11:14 |    思い出の街角 | Comments(0)

セナンク修道院~プロヴァンスの思い出

c0039428_10571984.jpg時々思い出される風景がいくつかあります。

そのひとつが南仏プロヴァンスのセナンク修道院。厳しい戒律のシトー派の修道院です。

訪れたのは、今から5年前のまさに今日6月15日でした。なだらかなプロヴァンスの野を走りぬけ、ゴルドの丘からさらに奥に入った谷間にひっそりと建っています。

前庭には一面のラヴェンダー畑が三分咲き。
漂う空気もほのかにラヴェンダー色に染まり、谷間にラヴェンダーのふくよかな香りが満ちています。(ラヴェンダー色の空気なんて変でしょうけれど、ほんとうに空気に色がついていたのです!!)

c0039428_11181375.jpg建物はまるで積み木を積み上げたようなシンプルな形。
建物の内部にもなんの飾りもなくシンプルそのもの。
1143年に創建されたということですが、ヨーロッパの石造りの修道院を作ってきた石工たちの技を感じさせます。


ちなみに、この日のドライブについて

(レンタカーは前日夕方TGVのアビニョンの駅で借りました。予約なしだったのですが、最後の一台でした。あぶない、あぶない。前もって予約しておくべきでした)

アヴィニョンでドライブのための地図を購入。アヴィニョンの城壁のすぐ内側にあるインフォメーション・センターに立ち寄り、見所を聞いてから出発。

プロヴァンスの道路は、観光ポイントの標識もしっかりしているので、安心。日本のように道が入り組んでいなくて、野原を抜けると街が現れ、そしてまた野原へという感じですから迷いようもありませんでした。

c0039428_2244312.jpgまず、立ち寄ったのは、リル・シュル・ラ・ソルグ(L'Isle-sur-la-Sorgue).
街中を清流が流れ、水車が廻る美しい街です。
路地を歩くと、まるで童話に出てくるような靴屋さんがあって、前掛けをしたおじいさんが靴を作っていたり、小さなパン屋さんがあったりする懐かしさのある街です。


次に立ち寄ったのは、フォンテーヌ・ド・ヴォークルーズ(Fontaine-de-Vaucluse)。
写真が残っていないのですが、山あいを清流が流れ、巨大な水車小屋があります。アヴィニョンに法王庁があった頃の製紙工場のあと。水力でパルプを作っていたのです。

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プロヴァンスのなだらかな丘には明るい光が満ち、赤いひなげしの花が咲き乱れています。
斜面にはりつくように作られたゴルドの街からは、プロヴァンスの野原が見渡せます。


なだらかな道を街から街へサイクリングでツーリングしていく人たちを見かけました。若い人たちだけでなく、中年の人たちも。

c0039428_2312244.jpg最後に立ち寄ったのはルシヨン(Roussilon)。
顔料のオークルの材料の土の採取場のある街。
家々の壁が真っ赤なオークルで塗られたかわいい街です。


年をとると時間の流れが速くなるといいいます。
5年前のことなのですが、まるで昨日のことのよう。
プロヴァンスの明るい光や、ラヴェンダーの香りがなつかしい!!
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by small-small-world | 2006-06-15 23:27 |    思い出の街角 | Comments(2)

散歩と日々の暮らしのメモランダム


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